天文館透り |
■[10/11] / 耳より情報 ■場所:[いづろ通り内] |
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【かごしま時間旅行:鹿児島の城下町〜天文館〜】
「天文館(てんもんかん)」とは、薩摩藩8代藩主の島津重豪が安永2年(1773年)に開設した暦学・天文学研究施設「明時館」の別名に由来するもので、固有の地名ではありませんが、鹿児島市の中心繁華街の通称として県内外に知られています。 では、この「天文館」は、どのようにして発展してきたのでしょうか。 慶長7年(1602年)に鹿児島城(別名:鶴丸城)が現在の城山町に築城され、この城を中心に城下町が形成されます。 町屋(町人の住む商工業地区)は現在の金生町・中町・呉服町・大黒町にあり、「石灯籠(いづろ)通り」を中心に街が発展し、元和元年(1615年)には中町に藩のお墨付きを得た48店舗の魚問屋が商店街を形成します。これが、現在の「なや通り商店街」の始まりです。 一方、「天文館通り」周辺や山下町は武家町で身分の高い上士が屋敷を構えていました。 明治維新後も「いづろ通り」周辺が繁華街という構図は引き継がれ、商店街はさらに「朝日通り」・「松山通り」・「御着屋」に広がります。 「御着屋」周辺の発展は顕著で、明治時代中期には、南九州随一の盛り場となりました。 このころの「天文館通り」周辺は、屋敷の持ち主が移住したために空き地が目立っていましたが、明治30年代になって屋敷跡地が分譲され、「天文館通り」にも商店街が形成されていきます。明治44年には鹿児島初の映画館として世界館がオープン。その後、鹿児島座、メリー館、帝国館、太陽館など映画館が次々と開業し、娯楽の充実とともに飲食店も数を増やし「天文館通り」は大歓楽街へと発展しました。 しかし、昭和20年に鹿児島市は空襲を受け、繁華街も一面焼け野原となってしまいます。 終戦後の復興は早く、山形屋が同年9月に営業を再開、昭和29年には「納屋通り」にアーケードが設置され、昭和36年に丸屋デパート(現・マルヤガーデンズ)も開業するなど街は活気を取り戻していきました。 近年では、天文館に関わる団体や企業などで「We Love 天文館協議会」を設立し、シネコン「天文館シネマパラダイス」の運営や各種イベントの開催など地域活性化の活動を推進しています。 鹿児島の歴史と共に歩み、多くの人が集い、憩う街として発展してきた「天文館」。 九州新幹線の全線開業に伴う鹿児島中央駅周辺の再開発や近年の郊外への大型店立地などにより空洞化が懸念され、かつての賑わいに影を落としていますが、市民や観光客が数多く訪れる中心市街地として、鹿児島中央駅地区、いづろ・天文館地区、本港区、鹿児島駅周辺を連携する都市軸の強化を図り、時代に即した発展・更なる魅力向上を目指します。
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